ubiquitous music

神谷泰史 個展 “ubiquitous music”

即興音楽ワークショップを主催したり、aMi label を立ち上げたりと、昨年末あたりから色々頑張っている神谷の初の個展です。会場は、vive les aMis 2日目で使われたギャラリー門馬の別館(?)ANNEXというところです。前にチラッと聞いたアイディアは、なかなか面白そうだったので期待してます。

コメント

“ubiquitous music” への6件のフィードバック

  1. こっちの記事の方が、より具体的に書いてあるね。
    http://bijutsu.exblog.jp/25
    神谷流"ubiquitous music"ってことらしいよ。

  2. taichi furudate

    この記事を書いた人も「いまひとつイメージがつかみにくい」と書いてるように、具体的なような、ただ煙に巻いてるだけなような……
    「日常を注意深く聴けばそこには音楽がある」というのは、俺は違うと思います。「音楽がある」のではなくて、「音楽として聴く」だと思うんですよね。音や振動を音楽として受容するかどうか。
    多くの日本人が音楽として聴いているであろうJ-POPなんかは、俺にとっては雑音でしかないんですが、逆に、俺が音楽として聴いているホワイトノイズやサイン波こそ音楽ではない雑音だと思う人も多いでしょう。
    つまり、音楽は聴く人の中にしか存在しないんです。それでも、人さえいればそこに音楽が存在する可能性はあるわけですから、ubiquitous musicということには変わりないとも言えます。
    なんか、鶏が先か、卵が先か、みたいな話になってる気がしてきましたが、神谷の個展が楽しみということは変わりません。と書いて終わっておこう。

  3. たかは

    あ、あああ。
    ああああ。それについてなんかmixiに書こうかと思ったんだけどさ、君の「宇宙消失」の感想のページにリンクを張ろうかと思って来たら君が書いてるからここに書いちゃう。
    >音楽は聴く人の中にしか存在しない
    というのはちょっと俺も思って、音は遍在しているが音楽は偏在しているんだと思うんですよ。それはイーガンの量子的空想に似ているなと思ってね。「シュレディンガーの猫の観測者」=鑑賞者、みたいな感じ。音楽になりうるもの(音)は、満遍なく、ある確率密度で存在する。けど、その音楽になりうるものはどのように音楽になるのか。それは、観測するということであり、決定づける行為、すなわち音を偏在させる行為なのではないかと。いう空想。
    しかもね、遍、偏という字はすごいんですよ!扁(=たいら)はほぼ遍(=まんべんなくある)と同じ意味を持つ(さっき調べた)んだけど、扁ににんべんがついた偏は「かたよった」という意味じゃないですか。つまり人が介在するってことはさあ!(イーガンの話に戻る)
    でも僕も楽しみです。君の23日のやつもとても楽しみです。

  4. taichi furudate

    >音楽になりうるものはどのように音楽になるのか。それは、観測するということであり、決定づける行為、すなわち音を偏在させる行為
    受容した聴覚刺激の中から、脳が処理することのできるものだけ選別して、それが聴かれる。鑑賞者こそが音楽製作者、音の錬金術師。というようなことが聴覚心理学だったか音楽心理学関係の本に書いてあったよ。もちろんもっとドライな文体で。
    遍と偏の話は面白いね。やっぱり人が収縮させてるのか。

  5. windtail

    あの、僕にも直接いってくださいよ。そういう話は。
    ところで、俺間違ったね。偏在じゃなくて、遍在が正解(自分的には)でした。
    失敗失敗。

  6. taichi furudate

    や、偏在でいいんじゃない?神谷が収縮させた音楽作品の提示っていうことで。ギャラリー門馬に辿り着くまでもある確率密度で音楽が存在するんだけど、ANNEXに近づくにつれて徐々に多様性が失われていって、最後、会場内において一意に収縮する。量子論的音楽作品だよ!